症例A 角川書店 1900円
著者:多島斗志之(たじま としゆき)
昭和23年生まれ。
「海賊モア船長の遍歴」「クリスマス黙示録」「仏蘭西シネマ」「不思議島」など。
p325
じつは、北米で大流行の心的外傷(トラウマ)原因説にたいして、わたしは当初、あまり肯定的な見方をしていなかったんです。近頃はあらゆるものを児童期のトラウマのせいにする。神経症の原因もトラウマ。人格障害もトラウマ。何もかもそこへ持ってゆこうとする風潮に反発をおぼえていました。
これは、わたしが精神分析医だからということもありました。ご承知だとは思いますが、精神分析には、本来、トラウマという観念はなかったんです。フロイトがトラウマを否定して以来、そんなものは存在しないことになっていたんです。
P329
ただ、以前にフランク・パトナムの論文を読んでいて、その内容が頭の隅にかすかに残っていてね。『多重人格障害の100症例の臨床現象』という86年の論文です。あの論文に、<時間の喪失、健忘が、多重人格診断の重要な手掛かりになる>というふうなことが書かれていたのを、ふと思い出したんです。
p355
・・・・・頭痛、睡眠障害、気分変動、虚言、暴力、自傷行為、自殺未遂、そして、ほんものの自殺。
「日本ではこれまで−」
と岐戸医師が言った。「多重人格者はほとんどいなかったということになっていますが、わたしはそうは思っていません。分裂病や境界例と診断された症例を片っ端から再チェックすれば多重人格をうたがってみる必要のあるケースが、いくらでも出てくるに違いないと思っています。わたし自身、真由美と出会う以前の古い診療記録を、じっくり見直してみたことがあるんですが、躁鬱病と診断した患者のうちの2人、分裂病の3人、境界例の1人、あわせて6人について、誤診の可能性を感じました。